リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義| 渡辺靖 著(中央公論新社) を読んだ。
先日のテクノ・リバタリアンを読んだ件の流れとして。
目次
- 第1章 リバタリアン・コミュニティ探訪
- 1 フリーステート・プロジェクト
- 2 人類を政治家から解放しよう
- 第2章 現代アメリカにおけるリバタリアニズムの影響力
- 1 「デモクラシー・ギャング」から身を守れ
- 2 「私、鉛筆は」
- 第3章 リバタリアニズムの思想的系譜と論争
- 1 自由思想の英雄たち
- 2 自由は不自由?
- 第4章 「アメリカ」をめぐるリバタリアンの攻防
- 1 アレッポって何?
- 2 アメリカのムッソリーニ
- 第5章 リバタリアニズムの拡散と壁
- 1 越境する「アイデアの共同体」
- 2 自由への攻防
- あとがき
メモ
- リバタリアンの描く社会像は根源的な次元で固定観念を揺さぶる
- 自由を極限まで進めようとする時、その先に何があるのか
- 「本当に自由が試されるのは、みんなと違うことをしようとするときだ」
- ノーラン・チャート
- リバタリアンにとっての「普遍的な正義」は、個人の権利(自己所有権など)
- リバタリアニズムは「完結した強靭な自己」という西洋流(特にアメリカ)の個人主義を前提とする
- 歴史的・人類学的にはそういった「個人」は虚構または理想
- 社会は個人の集合体ではなく、個人を個人たらしめているのが社会
- 「自己」と「他者」はどこまで厳密に切り離せるのか?
- 個人の権利は他者への責務と常に結び付けられて論じられるべきテーマでは
- リバタリアンにとっての「他者への責務」=
「他者の自由を侵害しないこと」
- それで十分なのか?
- リバタリアンの持つ自由市場・最小国家・社会的寛容という価値観
- 各論になればなるほど立場を一括りにすることは難しい
- (テクノ・リバタリアンでもクリプト・アナーキズムとか総督府功利主義とかの違いが論じられていた)
- リバタリアンというカテゴリーに自らを押し込めることは、かえって不自由な状況を招くのでは
感想
目次を見れば明らかだが、リバタリアニズム自体の解説がメインの本ではない。
本書は全体的にアメリカのリバタリアンを訪ねて、そこから現実のリバタリアンコミュニティの現状を明らかにする、という、どこか旅行記というかインタビュー結果の要約といった体。
正直、期待しているものとは違ったが、これはこれで読む価値はある本だった。
こういったイデオロギーを取り扱う本を読む時は、その論調に自分の思考を取り込まれないように注意深く読むようにしていたのだが、 この本ではそのような姿勢は不要だった。
というのも、著者はそもそもリバタリアンではないし、特定のイデオロギーに傾倒しているわけでもない。 ゆえに、著者の見解は客観的であり、読者に対して考えを押し付けていないし、リバタリアニズムの一部には価値を認めつつも、批判を取り上げたり、本質的な矛盾や疑義も見出している。
あえて本書を批判するとしたら、あとがきで述べているような著者の立ち位置や考えを前書きや本書の紹介に載せて欲しかった、というところだろうか。 危うく旅行記の途中で読むのをやめようかと思った。 あとがきには「リバタリアニズムの喧伝を意図していない」「世界・現実・人生を意味づける際の思考の選択肢を提供」と述べていて、それを先に言っておいてくれ...という気持ちになった。
最後に本書を通じて最も印象的で、自分自身も大きく賛同する著者の意見をまとめておこう(これもあとがきにあった)。
- 各人が切磋琢磨し、できることを持ち寄り、共に豊かになる場としての自由市場
- 公権力に依存しない市民社会の自立と自助を保障する存在としての最小国家
- 他者の自由を犯さない限り、個人の自由を最大限容認しようとする社会的寛容
こうした理念について各人が反芻し、少しでも多くの選択肢が認められる社会に近づくことができれば。
こうした態度がリバタリアンなのか保守なのかリベラルなのかはどうでもいい。